大正期のキリスト教書籍出版:日本基督教興文協会
大正2年(1913年)に<基督教文学の著作及び弘布〔公布〕>を旨として発足した基督教興文協会(英語名:Christian Literature Society of Japan)は、メソジスト教会の宣教師エス(サミュエル)・エッチ・ウエインライト(ウエンライト)が主幹を務め、最初の発行物として、『日本国民に伝ふる音信』(教文館・警醒社)の小冊子を世に送り出した。
同興文協会は、大正3年に東京基督教興文協会から日本基督教興文協会へと名を改め、以後、大正期の間、数多くのキリスト教関連書籍の出版を行なっている。『日本国民に伝ふる音信』の発行所が教文館・警醒社の二社であったように、大正3年の発行所は興文協会と教文館を併記していたが、大正4年頃には正式に興文協会を発行所と定め、発売所として教文館・警醒社その他のキリスト教関連書籍会社の名を挙げるようになる。
さりながら、同会の存続期間は短命であった。教文館公式ホームページの「教文館物語」に拠れば、大正12年(1923年)の震災により京橋区(現・中央区)明石町の社屋を失ったため、その土地を売却して、大正15年(1926年)に教文館と合併し、英語名称はChristian Literature Society of Japanを残す形となったと云う。
www.kyobunkwan.co.jp/about_us/history
なお、『赤毛のアン』の紹介者として夙に名のある村岡花子が最初の出版物『炉辺』(安中花子名義、大正6年)を上梓した出版社がこの興文協会であった。彼女は、その後、同所に務めることになる。ちなみに興文協会の印刷は花子の結婚相手となった村岡儆三の父である村岡平吉が一手に引き受けていた。
今回、紹介するのは同会成立初期の叢書「現代要求叢書」と「伝道叢書」である。当時、袖珍本として類書を数多出すほど流行したアカギ叢書(大正3年刊)と同じ大きさ・厚さの小冊子の体で出版されたことも時代性と相俟って興味深い。
まず、「現代要求叢書」の2冊は以下の通り。
第1、稲垣陽一郎『時代の要求と不易の福音』東京基督教興文協会、大正3年、再版、右
第2、山室軍平『生活問題と基督教』日本基督教興文協会、大正3年、左
上記執筆者のうち、山室は日本救世軍の創設者であり、日本最初の伝道者として著名であろう。稲垣は日本聖公会に属し、当時は仙台聖公会管理長老の職に就いていた。後に東京の聖公会神学校の教授となった。説教集『魂の平安』や『さくらめんと』等の著書の他、翻訳書も少なからず出ている。この2冊以降、出版されているかどうかは不明である。
次に掲げるのは「伝道叢書」である。先の「現代要求叢書」に続けて発刊された叢書で、大正6年までに20数冊出た模様。ここでは不揃9冊を紹介したい。
第2、今井革『祖先供養と基督教』日本基督教興文協会、大正4年
第3、今井革『仏の因果と神の摂理』同、大正4年
第4、今井革『仏の戒律と神の聖霊』同、大正4年
第5、小崎弘道・植村正久『基督教要綱』同、大正4年、再版
第11、小北寅之助『隠れた宝』同、大正5年
第13、天笠喜三(海軍大佐)『我信仰と基督教』同、大正5年
第15、山本忠興・谷津善次郎・大工原銀太郎『科学と信仰』同、大正5年
第16、植村正久『人生と宗教』同、大正5年
第19、柏井園『我等の聖書』同、大正6年
同叢書中、執筆者植村正久は言わずと知れた明治初期のキリスト教の伝道者・牧師である。同叢書執筆当時は全国を巡る伝道事業に従事していた頃であった。
また、小崎弘道は明治9年(1876年)に熊本でジェーンズ大尉より受洗し、同志社に入った人物であり、新島襄の後を襲って同志社の校長として在職した後、霊南坂教会の牧師を長く務めた。日本組合教派に属し、同理事に就いた他、日本日曜学校教会名誉理事、南洋伝道団団長、海外伝道教会会長も務め、多数の著訳書を物している。
柏井園は明治学院や、植村正久が設立した東京神学社に教鞭を執り、終生、神学教育に尽力した人物である。『柏井全集』全6巻(警醒社書店)・続編5巻及び別巻『基督教史』(長崎書店)にその業績が収められている。
今井革は、真言宗の布教使として住職の地位にあったが、北海道に赴任した際、寒さでリュウマチに罹り、故郷の堺・泉州で転地療養をしていた折、キリスト教の説教に接し、キリスト教へ改宗した人物である。仏教信者であった経験を生かし、仏教とキリスト教の違いを説いて回った。殊に仏教信者に対してキリスト教の教えを説いた書が多い。上記の「伝道叢書」3冊も然り。また、大正11年(1923年)と昭和6年には渡米し、ハワイの各派教会で伝道を行なっている。
小北寅之助は同志社神学校出身の牧師。山本忠興は早稲田大学の電気工学科教授であるが、植村正久の指導でキリスト教に入信した人物であり、谷津善次郎は東北学院出身の牧師である。大工原銀太郎は農学博士として同書執筆当時は東京帝国大学で教鞭を執っていたが、後に九州帝大教から総長となり、その後、同志社大学総長も務めた。
書誌的な観点から見れば、この叢書は、大正4年刊行の第2から第5までは、発行元の基督教興文協会の代表者としてイー・エヌ・ウワーンの名が印字されている。ウワーン(ワアンとも表記)は、バプテスト派の伝道師として、明治29年(1896年)に長崎で伝道を開始した宣教師である。後に、バプテスト教会西部組合の出版主事となり、広島に移っている。大正5年以降の代表者名は再びウエンライト(或いはウェンライト)に復している。
興文協会の主幹を務めたウエインライト(ウェンライト)は、合併した教文館の主幹となり、教文館の新社屋建設に心を砕いたと「教文館物語」に誌されている。かくして、昭和8年(1933年)にアントニン・レーモンド設計により現在地に建物が完成した。現在、彼の名を冠したウェンライト・ホールが貸しスペースとして供されている。(燈台守)