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テンポスタッフ

Author:テンポスタッフ
東京都杉並区西荻窪にて新装開店の中野書店です。

インターネット販売と、年3~4回発行予定の目録「古本倶楽部」を中心に書籍販売をしております。

また、2015年3月より毎土曜日は閉架式にて書籍をご覧いただけます。
詳細はこちらからご確認くださいませ。

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第11話 古書展「らすく」

「古本屋奮闘記」は、古書展の話。
  ご存知の方も多いと思いますが、中野書店は、東京古書会館でほぼ半年に1回開催された、アンダーグラウンド・ブックカフェこと「地下室の古書展」に参加していました。ちょうど6回目を終えたあたりで、そのことについて触れた文を見つけました。今回はそのお話。

「古本屋奮闘記」 第11話  「古書店」らすく 
  あいまいな記憶で恐縮だが、戦前の旧制中学を舞台にした鈴木清順の名作映画「けんかえれじい」の終わりがたに、「良志久」(あれ?羅志久だったっけ)という場面があった。豪快な喧嘩にあけくれる主人公・麒六こと高橋英樹が、校長室に呼び出されて説教を喰らうが、いつの間にやら話がずれて、あわや剣道自慢の校長と麒六が対決?というワン・シーン。その校長室の長押にかかっているのが「らしく」の扁額だった。学生は学生らしくあれというわけだ。舞台が東北なので「らすく」「らすく」を繰り返すのが可笑しい。この「らすく」、権威主義を笑いとばしているのだろうが、同時に若者らしく男らしく、という点では麒六も「らし」いとも言えるのだな。ラストは思いつめた表情で列車に乗る麒六。バックに流れるは、かの「昭和維新の歌」。はじめて耳にしたのもこの映画だったっけ。
  さてさて、わたしはどうも厭なのだ、らしい。こっちの「らしい」というのは迷いがあるからくっつけた。なに齢五十(これは私の年の話)にして天命を知るどころか、公私ともにいっつも惑っている。なんだよ天命って。私たちは何をしたいんだろうね。あれ?いったい何の話をしてるんだっけ?
 古書展の話である。うっかりアンケートに「古書展らしくなく」と筆をすべらしたら、「らしくねえ古書展って何なんだよ」と編集長に胸倉を摑まれた。「そんな大それたことじゃあ…」言葉を濁らせたが、「勘弁ならねえ、きりきりお白州で白状しやがれ」片肌ぬぎの遠山桜をちらつかされた。なので、ことは地下展である。本誌の読者は重々ご承知と思うが、アンダーグラウンド・ブックカフェこと「地下室の古書展」は、東京古書会館を舞台にほぼ半年おきに開催されるイベント満載の古本即売展である。昨年十月で六回が過ぎた。ついこないだ始めたとばかり思ってたけど、なんだもう六回過ぎちゃったのか。光陰矢のごとし。本にかこまれた中でのイベントも矢の如く行った。書物関係の展示が五回、映画上映二回、映画関係トークショー三回、文学系トークショー七回、コンサート一回、さらに毎回カフェ・ギャラリーや会場内で絵画、写真の展示、ワークショップ、雑貨販売。地下展オリジナル風呂敷の作成。もちろんカフェも皆勤賞。さまざまな方とご一緒させていただき、さまざまな方にお世話になった。おお!なんたる充実ぶり。わがことながら凄いじゃないか。誰も褒めないから自賛するのである。売上も大切だけど、古書をキーワードにどれだけ魅力のあるイベントができるか、どれだけ多くの人に来てもらえるかが、この「らしく」ない古書展の目的でもある。だから会場にはこうした新しさに敏感な若い知的な美しい女性の姿が目立つ。ふふふ。これも他には見られない地下展の特長なんだな。素晴らしい。このためにやってるといっても過言ではない。アベック姿もよく見かけるが、私はこのためにはやってはいない。ともかく会場は毎回古い本たちを背景に、イベントのるつぼになっている。ね、ね、「古書展らしく」ないでしょう?
  各地で即売展は開催されているけど、こんなにおまけのたっぷりくっついた古書展は少ない(よね?)古本の方がおまけかも、という疑問の声すらある。むろん従来の古書展や古本屋のあり方を否定しようっていうのではないんだ。私自身、ああ本がいっぱいあるという場所は、それだけで大好きだ。他に何もなくて一日いても飽きない。ただこれは個人的な感傷かも知れないが、しばらくこの本がいっぱいある業界に身を置いてると居心地が良い場所ながら、同時にいつも小さなコップの中にいるという淡い閉塞感を覚える。「らしく」ないけど「らすく」ありたいのかな。私は「昭和維新の歌」では踊らない。そして「古本屋音頭」で踊るのもちょっといやだ。けれど「古本屋のワルツ」でなら踊ってもいいな、という感覚である。踊れないけど。(ちなみに「古本屋のワルツ」は地下展でコンサートをしてくれた銀星楽団のオリジナル曲。これを聞いてぜひやって欲しいとお願いしたんだ。「古本屋音頭」の方は…懇意の古本屋さんにお聞きください) うまく言えないけど、古本屋はこうあらねばならぬ、こうあるべきだ、には曖昧に「そうかもね」と答える。反論する気はない。けれど、どっちかといえば、古本屋だけどこんなことも、あんなこともできる筈だという試行錯誤の方が好きなんだな、今は。本に囲まれたなかでトークショーや映画。できればもう一度コンサート、そうそう落語もあっていい。まだまだ地下展も発展途上なのかな。可能性があるんだろうな。扱う本は旧くさいけどやはり私は若いな。
  なあに偉そうにこんな原稿を書いているものの、イベントの大半はマナブ君こと西秋書店の二世がしゃにむに頑張っている。彼がいなければ上記の充実ぶりはなかった。また目録などのデザインは、かげろう文庫ご主人の妹さん、マユさんに全面依存である。他のメンバーもそれぞれ広報やイベントの陰に活躍しているが、特にこの二人のお名前を記して謝意を表しておこうっと。今後ともよろしくね。
  ちなみに次回の「地下室の古書展 vol.7」は、六月四日(日)~六日(火)に開催。併催の展示会は「日本と世界の蔵書票展」。型染め蔵書票・制作実演、ワークショップ「けしゴム版画で蔵書票を作ろう」、座談会「蔵書票の楽しみ(仮)」が予定。地下でも各種イベントやワークショップ、午後六時半より日替わりトーク・イベントを開催。兎にも角にも乞う、ご来場!(「彷書月刊」二〇〇六年四月号掲載)
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第10話 「屋号今昔」

「古臭い」店名の中野書店 中野智之が語ります。

  靖国通りを神保町一丁目から二丁目に歩くと、「○○書房」「○○書店」「○○堂」がずらりと軒を連ねています。名前だけで本屋の街だとわかる。ちなみに脇村義太郎さんの『東西書誌街考』に載っている大正十年から戦後にかけての神田古書店地図をながめても、店の入れ替わりはあるものの、ある時期までほとんど変わらない傾向のようです。感覚からいうと「堂」や「屋」は若干古く、「書店」「書房」はやや新しいのかなという程度で、カタカナやひらがな表記も稀にしか見当たりません。いまでも神保町の表通りは昔からの店が多いので、そう変わった感じは受けませんよね。
  ところが昨今の神田の古書店地図帖をながめてみると、きんとと、ちいろば、トキヤ、ロックオンキング、萬葉軒(まんばけん)、かんたんむ、すからべ、ひぐらし、ファンタジー、奥乃蔵、玉晴(きゅうせい、本当は玉の点がひとつ上の段にあるそうです)、@ワンダー、街の風、うたたね、喇嘛舎(らましゃ)……おお、すごい。名前だけ並べたらなんのことやら。皆ここ十年内に開店されたお店が大半で、新しい人ほど個性的な店名をつける傾向にあるようです。
  さて、昔から仲間内では本名より店名の方が通りがいいんです。古書会館の市場で落札品を発声する際にも、「○○全集、サンチャさーん、○○えーん」(三茶書房)、「○○叢書の口、イッセイさーん、○○えーん」(一誠堂)という具合です。ですから今どきはキントトさーん、チイロバさーん、マンバケンさーん(笑)。もっとも慣れは怖いもので、今ではなんともない。これは神田の業者ではありませんが、本郷になないろ文庫というお店があり、なないろさんとかナナちゃんと呼ばれている。愛らしい呼称ですが、本人は、ナナちゃんより戸沢白雲斎とでも呼んだほうが相応しい中年男(なないろさん、ゴメンなさい!)。また吉祥寺に若い人が「百年」というお店を開き、明治文献を中心に扱っているのかなと覘いてみると、せいぜい「ここ四、五年」(百年さん、ゴメンなさい!)。名は体を表すそうだから、どれほど奇抜な本を扱っているかと思うと、存外オーソドックスな品揃えだったりもする。
  しかし新規にこの業界へ入ってくる人は、商売になにかしらテーマを持っていることが多い。昨今はたんに古本を売買する目的だけではなく、書物を仲立ちにして人と触れあう機会を持とう、提供しようというふうにも見受けられます。西荻窪にあるハートランドは店内に喫茶を兼業し、詩の朗読会を主催していますし、渋谷のフライングブックスでは店でしばしばコンサートを開催。レコードのプロデュースもしています。先日立ち寄った、絵本作家・渡辺鉄太氏(『エルマーの冒険』の訳者わたなべしげお氏の御子息)と絵本編集者の「幸福な関係」というトークは、高円寺にある古本酒場コクテイルで行われました。ここは名前通り壁面の棚で古い本をうりながら酒場もしているお店。ほかにもいろいろなイベントを企画して、けっこう居心地よいのに驚きました。どの店もさほど広い場所ではないので、せいぜい数人、数十人程度のイベントですが、それがまた良い。これら、いずれも「新しい」名前の古本屋さん。
 面白いのは、彼らが今流行りのインターネット指向と逆行しているようにも思えることです。しかし同時に彼らはネットを否定もしてはいない。むしろ並行して利用している場合が多い。ネットやフリーペーペーを使って、より多くの人にイベントを告知はするけれど、来るのは数人でかまわない。むしろ何百人も来られたら困ってしまう。
  そうか、なるほど古本だって一つの本に何十人何百人から注文があったりしたら困ってしまいます。つきつめればオンリー・ワンを対象にしようってわけですから、さほど矛盾はないんですね。          (KANDAルネッサンス 2007年 4月25日)

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第9話 「耳嚢」 

「耳嚢」 
  みみふくろ。近ごろは南町奉行・根岸鎮衛の随筆『耳袋』も知る人は多いでしょう。これは二十年以上も昔の話。その頃は今ほど有名ではなかった。ある日の古典会になにげなくこの写本がまわってきました。全十冊らしいうち七冊だけ。不揃いのうえ途中の巻が抜けています。びっしり書き込まれてはいるものの、よく見かけるような江戸後期の写本。なので皆さんも重大視はしていませんでした。むろん当時、駆けだしの私がこの本の価値も何も知るよしもがな。ではあったのですが『耳袋』の名前は頭の隅に。東洋文庫本を流し読みしたこともあり、豪傑の話やら狐狸妖怪の話やらがつまっていて、けっこう面白かった。その記憶があったのでわからないままに入札し、なんとなく落札。つまりたいへん安かったわけですが、その時はこんなものかなと。とりわけ感想もありませんでした。
  これを見ていたのが当時ご存命だった反町さん。今度あの本を持ってらっしゃいと仰る。ご入用ならばお譲りしてもちっともかまわないという気持ちで、手持ちの東洋文庫二冊を添えてお宅にお届けしたのですが、その翌週が凄かった。ほぼ一時間、こんこんと『耳袋』の意義と、この写本の価値を解説してもらいました。要約すれば『耳袋』は写本でしか伝わらない根岸鎮衛の聞き書き、覚え書きのような随筆で、元来は根岸家門外不出だったのに内容がめっぽう面白いため、いつともなく世に出まわったらしい。写本自体はよく見かけるものの、それはほとんど最初の一巻、百話分程度にすぎないそうです。それがこのとき私の落札した写本は不揃いながら七冊、七百話も収録されている珍しいものだと。加えるに全巻、つまり十巻千話が整っているものは現存しないらしく、前田家尊経閣にあるのが一番分量が多くてそれも八冊どまりとか。現在活字で読めるのはあちこちに所蔵されている本を合せて十巻千話をそろえたもので、つまりこれは尊経閣本に次ぐくらい貴重であるのだと。うろ覚えで恐縮ですが、ひどく昂奮された口調で概ねこのような話をされ、最後に反町さん、ニヤリと笑みをこぼされた。
  「いいですか、安く買えたからといって、安く売ってはいけませんよ」。
  素直な私は、先輩のご意見には従うのです。次の自家目録に当時の私としては思い切った値段を付して掲載しました。が、それこそあっという間にご注文を頂戴し、さらに取り逃がされた某大学を含む複数のお客様の本気で悔しがること。申し訳なく思いながら、内心ではこんな不揃いの本にこれほどご注文が重なるものかと驚いたことでした。
  以来、何度か『耳袋』は扱うのですが、それはみなお話どおり最初の百話分の写本ばかり。あのときの『耳嚢』にまたどこかで出会えないかと密かに思いつつ、今日も古典会の座席にすわっているのです。
                                                                   中野書店 中野智之
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第8回  東京下町考 

東京下町考

 ときどき下町情緒あふれる場所、などという言葉を耳にする。あたりまえに山の手と言い、下町という。昔から東京(江戸)の町は、なんとなくこう二分される。そして昨今、この「下町」という言葉は「レトロ」と同義のように使われる。付け加えれば、洋風ではなく和風の、庶民的なレトロ、という感覚かな。

 神保町もたまさかそんな風に紹介されるが、どことなく違和感がある。さらに小生の住む西荻窪さえ、下町の雰囲気が残った街だ、とする文章を読んだこともある。しかし、西荻は庶民的でレトロな雰囲気ではあるものの、あきらかに下町ではない。では神保町は下町なのか? どうだろう。もちろんこれは下町と呼ばれるのが嫌だ、というのではないんですよ。 

  多くの人にとっては、フーテンの寅さんの故郷、葛飾柴又が典型的な下町だろう。だが実は小生、疑問だった。あそこ下町なのかなあ? という違和感。葛飾柴又は、例えば長野の善光寺と言うと少しおおげさだが、やや似た印象なのである。今はそうではないけれど、いわば田舎の門前町。山田洋次監督は、そんな風に思わなかったのかなあ。

  三鷹で育ったので、子供の頃、下町というのは新宿の向こう側と思っていた。今はあまり使わないが、昔はよく手紙の住所に都下と表記していた。都内(区内)と都下なのだろうが、新宿よりこっちかた、印象的には中野も杉並も都下だ。だから下町は山の手線の内側と。

  でもこれは違ってた。成長とともに行動範囲は広がるので、やがて山手線の内側も結構広いんだと知る。赤坂や青山あたりは下町とは言いません。だいたい皇居を下町とはいわないや(笑)。

  ひとつの分け方に、住人の身分階層がある。軍略上の観点で、江戸時代には武家は比較的高台に住み、町人は低い場所に住んだ。だから山手・下町に別れたという。維新以後、武家屋敷の後には政治家や高級官僚、大商人など、富裕層が移り住んだ。赤坂とか青山なんかがそう。

  そこが山の手で、それ以外は下町。確かに納得はできる。できるけれど、やはり? が付く。小生の「下町」観とはどうも少しずれる。場所が低いとこにあるから下町かあ? あるいは庶民が住むから下町だろか。人情味あふれる、みたいな場所を下町と。

  たとえば本所、深川、向島といったら下町。浅草や下谷、神田(神保町ではなく神田駅周辺)は確かに下町。いわゆる“庶民”の町。でもそれなら西荻だってそうだ。田園調布みたいな場所は山の手で通用しそうだが、その感覚で言うなら、中央線だと新宿よりこっち側はみな下町になってしまう(いや、新大久保あたりは今や外人街 笑)。でもこちらは山の手。少し外れたら郊外、つまり田舎。江戸時代なら三多摩は田舎。そういう意味で、葛飾柴又も小生には郊外なのだ。

  江戸時代に、日本橋は下町だった。でも今の日本橋、銀座あたりを下町とは、ちょっと考えにくい。横文字のブランド感覚、高級感がいけない。やはり下町=庶民は結びつく。

  食べ物ではどうかしらん。昔からもんじゃ焼きを食べてた場所、というのもあるかな。確かにもんじゃは下町ブランド。昔は都区内でも限られた場所の食べ物だった。都下に住む小生は知らなかった。でも食いもんで分けるのも、どうだろうか。関西のうどんは出汁の利いた薄口で旨いが、そういう薄味を好む場所はみな関西だ、とするのは乱暴だ。ういろうときしめん食べるから名古屋、スパゲッティ食べるからイタリアね、みたいな。そりゃ話の順序が逆(笑)。

  東京(江戸)を下町と山の手に分ける基準は何なのか。山の手と下町を明確にわける条件ってなに? なんなら納得できるのか。簡単そうでいて、実はこれが微妙にわからない。小生、あちこち転々としたから分からないのかな。もしかしたら代々東京生まれ東京育ちには、そんなに難しいことではないのかもしれないなあ。

  ううむ、どうでも良いことなのに、いつまでもうるさいですね。もう、この日記は後日の宿題(笑)。
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みむかしはん

          
  二月といえば受験シーズン。朝にお茶の水駅から下ってくると間々、緊張した面持ちの若者の一群に出くわすことがある。   ああ、今日は明治大学の入試かと思い当たるのだが、今を去る三十数年前、実は私もこの集団の中にいた。どういうわけか毎年この季節には雪が降り、そういえばあの日も大雪。ともかく試験会場は寒かった。
そして入学したのは文学部演劇学科。なんで演劇だったんだろう、聞かれても困る。芝居の経験なんて全くなかったのに、なんとなく面白そうだと。いわばなりゆきです。しかしながら動機はあいまいでも学校生活は愉しかった。むろん学業ではない。不謹慎だが時間とエネルギーのあり余っている年頃には、机に向かうよりも芝居を打っては解散、劇団を募っては壊す、積んでは崩しのパワフルな日々は授業より、いや麻雀やコンパなどよりもはるかに充実していた。他の学部のことは知らないが、退屈をもてあますことはなかった。
  だいたいみんな、勘違いしてここへ来る。演劇科だから創作の現場に立ち会えるんだろうと。ところが本分は「学」なのですな。「技」ではなく「史」や「論」を学ぶことが主眼である。学問として演劇を学ぶ場所なのである。当然、授業といったらギリシャ悲劇やらシェイクスピアやら、能やら狂言やら。二、三ヶ月もするとぼつぼつ、こんなはずじゃなかったと思いはじめる。俺たちこんなことしてて良いのか? ほかにやることがあるんじゃないか? そこでおもむろに仲間を募り、自らの手で芝居を立ち上げる。既存の劇団に入る者もいたが、いずれにせよ人のよさそうな教師に頼みこんで判子を貰い、空いた教室を借り受け、窓に目張りをして臨時の劇場に。照明器具だけはレンタルだが小道具や衣装類はみな手作りしていた。
  だいたい教室がほどよく汚かった。学生運動の名残りもあってか、ことに芝居をする連中は誰もが校舎を好きに使って良いと思い込んでいた。勝手な話でさぞかし学校にとっては迷惑だったろうが、自由にできる場所と時間があることは心地よい。だから真面目に通うのである。一日中学校にいる。ただし日課といえば芝生の上で発生練習やら柔軟体操。さらには空いた教室にもぐりこんで、脚本の読み合わせや道具作りに日々忙しい。やむなく授業は余技と化す。専攻が専攻だけに、みな代返は上手かった。ただし試験前になるとノートの貸し借りで右往左往。芝居の合間に試験が用意されてたんだな、きっと。まあ、あの頃の演劇科は毎学年ごとにそんな雰囲気だったらしい。
  明大前の和泉校舎で二年、お茶の水に移ってもやることは変わらない。当時、明大の正面には学生運動の巨大な看板が鎮座してたのを記憶している人も多いだろう。あれほど目立ちはしなかったが、よく見れば芝居のポスターもそこらじゅうに貼ってあった。日替わり週替わり、どこかの教室でどこかの集団が公演してる。その頃の本校には551ホールという照明設備の備わった教室もあり、しばしば劇場として使われた。むろん私たちも芝居をさせてもらった。今どきはどうなんだろう。現在の瀟洒な校舎を眺めながら、これはこれで素晴らしいと思う反面、塵ひとつない教室だと、学生たちが勝手に垂木を這わせて舞台を組んだり、釘をうって照明をつるしたりはできないだろうなあ。数千人も入れるような立派なホールはあるけど、そこはせいぜい数十人程度の学生客を相手に胡散臭い芝居ができるような場所ではない。いまどき本校内で芝居なんかできるのかなあ。むろん汚いのも困りものだが、好き勝手できる空間がないのはそれ以上につまらないんじゃないかな。学生にとってどちらが幸せなのだろうと疑問に思うこともある。が、ともかく当時はそんな具合で、一学年からいくつもの集団が生まれては消えていった。
  明治の演劇といえば、先輩にはかの状況劇場・唐十郎。近年ではNHK朝ドラ『わかば』の原田夏希や『花より男子』の井上真央がここの出身と聞くが、私の同期には後の『おしん』こと田中裕子がいた。在学中に文学座に入り、あれよという間に有名になったっけ。さらに同世代でいえば、残念ながら明治ではないがあの頃、東大に一人すごい奴がいるらしいと評判になってた。どれ、ひとつ目利きしてやろうじゃないかと、駒場の校内にあった劇場に赴いたことがある。立ち見も出る満席の舞台で、目もさめるオーラを発していたのが野田秀樹である。タイトルは『咲かぬ咲かんの桜吹雪は咲き行くほどに咲き立ちて明け暮れないの物語』。舌がまわらん。これが夢の遊民社の旗揚げ公演だった。筋立は失念してしまったが、煌く科白の洪水、息つく暇もない役者たちの動き、複雑な構成にはすっかり圧倒させられた。世の中に天才はいるものである。この私のほかにも(笑)。
  さてさて、演劇専攻だからといって芸能の道に進むというのは、それこそ一握り以下。むしろ四年間でこれでは飯は食えんというのをヒシヒシ実感するせいか、大半は卒業すると別の道に進む者が多い。演劇に限らず芸術系学部の、これは宿命だろう。私たちも四年の秋になると、さすがに芝居どころではなくなり、卒論と就職活動でみな大人の顔になっていく。昨日まで一張羅のボロジーンズをはいていた奴が、ふと気づくと折り目正しいリクルートスーツ。なんと銀行や役所を目指したりするのである。あの、あいつらが、である。ちょうどその前後に神保町に神田古書センターがオープンし、親父が出店していた。なんとなく流れに乗り遅れた私は、色々事情もあったのだが、他にやることもないまま、なんやかや手伝いをしているうち、いつしか古書業界に首までどっぷりとつかってしまった。後悔はないが、あれからひとむかし、ふたむかし、気がついたら三むかし半の時が過ぎていった。
  二月が受験シーズンなら、三月は卒業の季節。神保町近辺の大学は武道館で卒業式を行うことが多く、九段下から神保町二丁目一丁目と、毎年この時期は正装の若者たちで賑う。男の子は背広、女の子は袴姿のいわゆるハイカラさんスタイル。うまく時期があえば桜の舞うなかを、三々五々連れ立って闊歩する風景は今も昔もかわらない。どういうわけか袴姿の女子はみな似合って見えるが、おおむね男子のスーツは様にならない。背広というのは着る者が社会でゴシゴシ揉まれ、少しくたびれた時分から体に馴染んでくるものなのかもしれない。もっとも私はいまだに似合わないといわれるが、これは仕事柄、年に数度しか着用する機会がないからである。数着しかないスーツは痛まないまま腰まわりがきつくなり、ついにこのまま死ぬまで似合いそうにない。
  三むかし半に話を戻すと、実は入学式はさぼってしまった私も、人並みに卒業式には出席している。会場はやはり武道館。挨拶や校歌斉唱などお決まりのセレモニーに少し白けかける。いや、私だけ祭のあとの欝モードだったのかもしれない。けれども、やがて今も鮮明に記憶している場面に出くわす。卒業生が大人数のため小中学校のように一人一人ではなく、各学部、学科ごとに呼ばれたら起立、着席するという儀式のときだった。演劇学専攻も呼ばれ、場内のあちこちで馴染みの顔がぼつぼつ起立する。と、どこからともなく拍手がわき起こった。指笛を鳴らす者もいた。他の学科生が起立した際にはついぞなかった光景である。立っている側はみなポカンと狐につままれたような面持ちをしてたが、ふと後ろの席から話し声が聞こえた。
  「まったく、こいつらが一番、面白そうだったよな」
  着席の声とともに拍手もしぼむ。が、私の中には幕が下りたあとの舞台に立っているような軽い高揚感が残った。そうなのか?俺たち面白かったのか? そうだよな、あいつもこいつも、俺たちみんな面白い時間を過ごしたよな。どうやら客も満足してくれたみたいだ。つまりはこの見知らぬ誰かのひと言が、私の卒業式になったらしい。

  あたらしき背広など着て旅をせむしかく今年も思ひ過ぎたる
  新しき本を買ひ来て読む夜半のそのたのしさも長くわすれぬ  
                                      石川啄木
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